Historical moments at the Olympics

1896年に始まった近代オリンピックは、既に100年以上の歴史を持ち、夏季は31回、冬季は24回もの大会が既に開催されています。その中には多くの感動的な瞬間があり、人々の記憶に永遠に残り続けるであろうアスリートたちが活躍してきました。ここでは、そんなオリンピックの歴史に残る瞬間や記憶を紐解いていきましょう。

ベルリンで輝くジェシー・オーエンス

1936年、ナチスが独裁政権を敷くドイツ、ベルリンにおいてオリンピックが開かれました。アーリア人至上主義者であるヒトラーは、その優位性を喧伝すべくこの大会に望み、実際にドイツは33個というもっとも多い金メダル数を獲得します。しかし、そこに一撃を食らわせたのがアメリカのジェシー・オーエンスです。陸上競技の花形種目である短距離走、400mリレー、走り幅跳びで4つの金メダルを獲得し、非アーリア人アスリートとして表彰台の頂点で大きな歓声を受けたのです。

アフリカの象徴となったアベベ

Abebe became a symbol of Africa

1960年のローマ大会におけるもっともセンセーショナルな瞬間は、マラソン競技において起きました。世界記録でゴールをトップで駆け抜けたのが、なんと無名で裸足のランナーだったのです。アベベ・ビキラは、この瞬間から母国エチオピアの英雄となり、また同年17の国が独立したアフリカ全体においても、彼の優勝は象徴的な意味を持つようになりました。アベベは、4年後の東京オリンピックでも金メダルを獲得しています。

黒人差別と闘ったアスリートたち

1968年にメキシコシティでおこなわれたオリンピックでは、アメリカの黒人差別と闘うアスリートが注目を集めることになりました。男子200mで金メダルを獲得したトミー・スミスと銅メダルを獲得したジョン・カーロスが、表彰式で靴を脱ぎ、黒手袋をつけて拳を高く突き上げたのです。これは「ブラック・パワー・サリュート」と呼ばれるもので、アメリカ国内の人種差別に対する抗議行動としておこなわれました。

ロサンゼルス大会の商業的成功

1984年にアメリカはロサンゼルスでおこなわれたオリンピックは、その後のオリンピックの方向性を決定付けた大会です。開催自治体の金銭的負担が大きいため、オリンピックの立候補都市が減少する中開催されることになったこの大会。開催都市ロサンゼルス市は、この大会への費用負担を拒否。当地のオリンピック委員会は、自力で資金、スポンサーを集める必要に迫られました。彼らはオリンピックロゴの使用を各業種1社に絞ることで希少価値を高め、高額の使用量の獲得に成功。またテレビ放映権を高額に設定し、放映権料で稼ぐその後のスポーツビジネスモデルに先鞭をつけました。これによりロサンゼルス大会は商業的に成功をおさめ、オリンピックはその後商業主義的な色合いを徐々に濃くしていくことになるのです。

ドリームチームの登場

USA Dream Team

プロ選手を排除してきたオリンピックでしたが、1984年ロサンゼルス大会以降商業主義化が進み、1992年のバルセロナ大会では、ついにバスケットボール競技にプロの参加が認められました。これによりNBAで活躍するマイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンなどのスーパースターがオリンピックに参加できることになり、彼らが組んだアメリカ代表チームは「ドリームチーム」と呼ばれ、圧倒的な力で金メダルを獲得することになるのです。